Yamakita-ishi
山北石の歴史
長野水神社にある石碑
山北石の起源
山北石の起源は、寛文年間(1661~1672)に「大石」、「長野」、「袋野」の三水道の開削をするにあたり、周防(山口県)から石工と金工を山北村に招いたのに始まります。石工を招いた理由は、関の建築のため。3ヶ月足らずという工期で水道を完成させるためには高い技術の石工が多数必要だったと推測されます。
工事が終わったあとも彼らは土着しました。なぜ石工たちが周防に帰らず山北にとどまったのは不明です。ヘグロ山南側の石脈より石を切り出し、筑後川を使って藩外へ出荷し、久留米藩の財政に貢献しました。
宝暦の頃には山北村には16人の石工がいたといい、国本の丁場の「白石」とへグロの丁場の「江藤」の2棟梁は、藩の指定工として四人扶持を給し帯刀(脇差)を許されていました。但し、賀茂神社(浮羽町山北)や若宮八幡宮(吉井町若宮)には寛文以前の作品があり、この土地の石工の起源は定かではありません。
山北石の作品
徳川時代の初期頃より、筑前・筑後・肥前などの神社仏閣の石造物(鳥居、狛犬、燈籠など)の大部分が山北石であり、作品には山北村の石工の名前が刻されています。代表的な石工は「菅原官太」(元姓は白石、1780~1854)で、久留米藩篠山城にも石細工を納め高い評価を得、有馬氏より菅原姓の使用を命じられ小刀(脇差)を拝領しました。(※菅原姓は一代のみ)
山北石は荒瀬(現在の沈み橋付近)より筑後川を利用して下流へと運ばれ、明治中期頃まで山北石の出荷は続きました。久留米市内の石狛犬のほとんどが山北村の石工が山北石を刻んで作ったものと言われています。
狛犬は、慶応以前を前期山北型、明治以降を後期山北型と呼び、明らかに作風が異なっています。前期の作品は作者の個性が強く優れた作品が多いですが、後期の作品は大衆受けする商品化の傾向が強くなっているようです。
また大正4年に出版された浮羽郡史には「郡内の需要を充す外、佐賀地方へ向け輸出せられている。一般社会の発達につれ、家屋の建築、土木の工事等の石材の需要は日に益加わるので、之が販売の方法及販路の拡張を計らんか、其産額は今より数倍するものがあろう、…」とあり、このことより、後期は工事用の石材としても利用されていたことがうかがえます。
いつの頃からかはっきりした年代は不明ですが、山北石の生産は石切丁場とともに小塩にもわたり、生産量は山北地区と肩を並べるほど多くなります。小塩地区からも「秦」などの有名な石工が誕生します。
※山北石とは安山岩で、山北地域のみに存在する石の種類を表す名称ではありません。山北地域から切り出された安山岩を山北石と称していました。
身近な山北石の作品
賀茂神社(浮羽町山北)
燈籠:1,800年 白石利七作
狛犬:1,808年 白石源三郎作
狛犬:1,810年 白石佐吉作
宮地嶽神社(吉井町屋部)
鳥居:1,802年 白石又吉・連吉作
狛犬:1,802年 白石又吉作
※長野水神社境内の記念碑の台石
長野水門として使用されていた山北石を、昭和38年水道改造時にこの碑の台石として記念に残しています。
※山北の石切3丁場(国本、へグロ、山の堂)は、長年の経過により丁場の面影を全くとどめていません。目視による丁場跡の確認は不可能に近いです。
参考:浮羽町史、浮羽郡史
取材:現浮羽歴史民俗資料館館長 金子信一、元館長佐藤好英氏
山北石の作品